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小さなヒロイン、ほうに心が洗われる感涙の時代小説―『孤宿の人』

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宮部みゆきさんの『孤宿の人』を読んでいて不覚にも涙を流してしまった。目の前で新聞を読んでいた妻に気づかれないように、こっそり洗面所に行き、顔を洗った。でも、この涙は洗い流すのは惜しい、感涙だった。

孤宿の人〈上〉 (新潮文庫)

孤宿の人〈上〉 (新潮文庫)

孤宿の人〈下〉 (新潮文庫)

孤宿の人〈下〉 (新潮文庫)

本を読む前に、この物語が讃岐国丸亀藩に幕末から明治初年まで幽閉された鳥居耀蔵をモデルにしていると聞いていたので、その先入観を持っていた。

 四国は讃岐国、丸海藩。

 三万石というこぢんまりした所領ながら、れっきとした譜代大名である。北は瀬戸内海に面し、南を山に囲まれ、地味豊かな自然に恵まれた郷だ。そも「丸海」とは、入江の形のなだらかに円いことと、この海が穏和でそこに住まう者たちに優しく豊かであることから名付けられた。古い地名なのである。

(『孤宿の人』上巻・P13より)

丸海(まるみ)藩畠山家→丸亀藩京極家

船井加賀守守利(加賀殿)→鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)

といった読み替えをしながら読み始めたが、気が付くと宮部さんの構築した物語だけの架空の「丸海」に没入していた。

江戸から金比羅代参に連れ出された九歳の娘・ほうは、讃岐国丸海で捨て子同然に置き去りにされた。幸いにも匙家(藩医)を務める井上家に引き取られるが、今度はほうの面倒を見てくれていた井上家の娘の琴江が毒殺されてしまう。折しも、丸海藩では、流罪となった幕府の要人・元勘定奉行の加賀殿を迎え入れようとしていた。やがて領内では、不審な毒死や謎めいた凶事が相次いだ…。

物語は、「鬼だ、悪霊だ」と恐れられる加賀殿がもたらす災厄と、それをめぐる藩内の抗争が、丸海という独特の風土の中でどんどんエスカレートしていく。さまざまな登場人物たちの目を通して、重層的にかつサスペンスフルにクライマックスに向けて、物語は進展していく。

この作品の魅力のひとつが、「ほう」という女の子の存在。孤児で野生児同然に育てられ、「阿呆」の「ほう」と名付けられた運命の子。彼女のもつ無垢な心が、さまざまな災厄に見舞われた丸海の漆黒の闇の中で一筋の光を与える。悪霊と恐れられる加賀殿との絡み(交流ぶり)が読みどころのひとつ。

「この子の無心と無知を、私はずっと、かけがえのない美しいものと思ってきた。が、今の今は惜しくてたまらん。(後略)」

(『孤宿の人』下巻・P94より)

もう一人のヒロインが、引手(江戸でいう岡っ引き)見習いの宇佐。琴江の毒死や領内で起こる不審な事件の謎を追う。「宇佐=うさぎ」。すなわち、宇佐はうさぎの飛ぶ海の郷、丸海の住民を象徴しているように思われる。(表紙装画にもうさぎが付いている)

 夜明けの海に、うさぎが飛んでいる。

 井戸端で顔を洗うと、ほうはわざと手拭いを使わず、ぐん! と頭を振って水滴を跳ね飛ばした。心地よく澄んだ夏の朝、みるみるうちに額や頬が乾いてゆく。目が覚めてゆく。

(中略)

「ほう、見てごらんなさい。風はこんなに静かなのに、海には白い小さな波が、たくさん立ち騒いでいるでしょう。ああいうとき、この土地の者は“うさぎが飛んでいる”というのよ。うさぎが飛ぶと、今はお天気がどんなに晴れていても、半日と経たないうちに大風が吹いて雨がくるものなの。だから、海にうさぎを見ると、猟師は早く舟を返してしまうし、紅貝染めの塔屋では樽に覆いをかけてしまいます。遠目で見ると、小さくて白くてきれいなうさぎだけれど、それは、空と海が荒れる前触れなのですよ」

(『孤宿の人』上巻・P7より)

物語の余韻に浸りながら、読書の達人・児玉清さんの解説を読んでいたら、物語がフラッシュバックしてきてもう一度感動がよみがえってきた。この解説も今年読んだものの中で屈指のすばらしい解説のひとつだと思う。