未曾有の大災害の中で、補陀落渡海に挑んだ人々を描く

補陀落ばしり物語中嶋隆(なかじまたかし)さんの長編時代小説、『補陀落ばしり物語』(ぷねうま舎)を献本いただきました。

本書は、江戸時代の中頃、補陀落渡海(ふだらくとかい)を行った人々を描いた時代小説です。

補陀落渡海とは、紀州熊野沖にあるとされた補陀落山(ふだらくせん)の観音浄土に赴くために、人を乗せて密閉した小船を沖に流す宗教行事のこと。九世紀から十八世紀初めまで行われていたといわれています。

著者は、西鶴を中心とする近世文学を専門とする国文学者で、そのかたわら時代小説も手掛け、『廓の与右衛門 控え帳』で第8回小学館文庫小説賞を受賞されました。

時は、元禄・宝永年間、富士山大噴火、度重なる大地震の巷から船出した、みたびの渡海顛末。
一揆の首謀者として、父親を磔台に送った又八とお雅兄弟、難波の大店を廃嫡された空翔、親殺しの汚名を負った嘉六、お家騒動から、無実の朋輩を切り捨てた定之介……。
悔恨の過去とともに、災厄の巷をはいずる「ふつうの人々」。彼らに、浄土を目指す渡海がもたらしたもの、それは観音との出会いか、それとも無意味な死を死んだ者たちへの鎮魂か。

(本書カバー帯の紹介文より)

物語は享保年間の那智から始まります。浜に建てられた粗末な小屋は、毎夜、小博打が行なわれていました。その夜は客が老博打打ちの又八の他におらず、同じ年頃の胴元は、博打を止めて話を始めました。

「観音浄土寺の坊様の渡海が禁じられてから、那智の浜に人が集まらなくなっちまった」
 古代から続いた渡海、僧が船に乗って海の彼方にあるという観音浄土、補陀落山を目指す補陀落渡海は、幕府が禁令を出したので、享保七(一七二二)年六月の空翔上人の渡海以後行われなくなった。
「今から十年も前のことだが、わしは、この目で空翔上人様の乗った渡海船が沖に出るのを見て、合掌したもんだ。それが渡海の見納めになった」
 胴元が得意げだった。
 
(『補陀落ばしり物語』 P.7より)

ところが、又八は、「空翔は卑怯もんじゃ」と罵り、空翔は若い時に渡海船に乗るのが怖くて、身代わりを銀で買って逃げだしたという話をします。

昔から、船上の閉ざされた屋形に籠もって補陀落山を目指す僧には、わずかな食料と水だけしか与えられません。普通の人間なら、観音浄土にたどり着く前に、船の中で餓鬼道に堕ちていしまいます。

しかも、船を脱け出して浜に泳ぎ着いても、村人に捕まえられてまた船に乗せられるという過酷なものでした……。

波濤の彼方で、飢えと仮死の果てに、渡海した者が見たものは何だったのでしょうか?

 生命には軽重がない。ただ、深浅があるのみだと思う。運命に弄ばれながら懸命に生きた人々の命の深さを、私は描きたかった。江戸時代の人々の死生観には、仏教が深くかかわっていた。この物語では、観音浄土を目指して渡海に挑んだ人々の信仰心を描いた。

(中略)

 歴史上の著名人が登場しないこの物語は、歴史小説の王道から外れる。しかし、私は歴史に名を留めることのなかった人々の生きざまを、どうしても書きたかった。その思いに共感してくれる読者がいると信じて……。

(『補陀落ばしり物語』 跋 P.233より)

跋(あとがき)で、作者は執筆の動機を記しています。

地球温暖化が進み、地震や豪雨、高温など天変地異が随所で発生しています。新型コロナウイルスが世界規模で流行する今だからこそ。救済を求める人びとの信仰心や生きざまを描いた、この歴史時代小説に向き合ってみたいと思います。

補陀落渡海を描いた短編小説に、井上靖さんの『補陀落渡海記 井上靖短篇名作集』があります。こちらも手に取ってみたくなりました。

●目次
 始章 那智の賭場
渡海 その一
 一章 出会い
 二章 兄妹
 三章 「犬」と尼
 四章 鴎の助七
 五章 破戒僧
渡海 その二
 六章 宝永大地震
 七章 悪人
 八章 観音狂い
 九章 強請り
渡海 その三
 十章 再会
 十一章 復帰
 十二章 別離
 十三章 遺された者
 十四章 最後の渡海
 終章 再び、那智の賭場

装丁:Bow Wow 矢部竜二

補陀落ばしり物語
歴史研究の修練の果てに、満を持して送る、著者入魂の時代小説! 補陀落ばしり物語 中嶋 隆 2020年1月24刊行 四六判・並製 240頁 本体予価1600円ISBN978-4-910154-01-5 C0093 時は江戸宝永年間、富士山大噴火と大地震の巷から船出した三度の渡海の物語──西方浄土に向けて、僧を小舟に閉じ込...

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『補陀落ばしり物語』(中嶋隆・ぷねうま舎)
『廓の与右衛門 控え帳』Kindle版(中嶋隆・小学館文庫)
『補陀落渡海記 井上靖短篇名作集』(井上靖・講談社文芸文庫)

中嶋隆|時代小説ガイド
中嶋隆|なかじまたかし|国文学者・作家 1952年、長野県生まれ。 西鶴を中心とする近世文学を専門とする国文学者。早稲田大学教授。 2007年、『廓の与右衛門控え帳』で作家デビューし、第8回小学館文庫小説賞受賞。 ■時代小...