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永代橋を架け、江戸経済を変えた「狼」と呼ばれた男の生涯

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『商う狼 江戸商人杉本茂十郎』

商う狼 江戸商人杉本茂十郎永井紗耶子(ながいさやこ)さんの長編歴史時代小説、『商う狼 江戸商人杉本茂十郎』(新潮社)を紹介します。

文化四年(1807)八月、富岡八幡宮の祭礼の日に起こった悲劇、永代橋崩落事故については多くの犠牲者を出したことから、時代小説でもたびたび描かれています。
しかしながら、再び架橋されるまでの経緯を描いた時代小説はほとんどありません。
ある一人の商人の活躍によって、「末永く代々続く」とも読める、永代橋は再建されました。

本書の主人公、杉本茂十郎は、甲斐国の農家に生まれ、十八歳で飛脚問屋大坂屋に奉公し、同店に婿入りして九代目の主人となった、実在の江戸商人です。

江戸時代、儒教に基づく「士農工商」という概念が形成され、緩やかな身分制の社会となっていました。
が、「士農工商」のうち、領主に対して税金(年貢)を納めていたのは、農民ばかりでした。商人も職人も、そして武士も税金を納める必要がありませんでした。

町入用のように、屋敷を持つ家持町人が負担する町の運営経費のようなものは存在しましたが。
四公六民や五公六民という高い割合で農民に掛けられた年貢で、幕府や藩の歳費のほとんどを賄っていました。
経済活動が拡大した江戸後期になると、この税の仕組みでは幕府は慢性的な赤字体質から脱出できずにもがき苦しむことになります。

そんな時代に登場したのが、大坂屋茂兵衛、後の杉本茂十郎でした。

甲斐の農家から江戸の飛脚問屋の養子となった茂十郎は、十組問屋との紛争解決で名を揚げた矢先に永代橋の崩落事故で妻と跡取り息子を失う。その悲しみを糧に、三橋会所頭取となり橋の運営に要する莫大な費用を集め、衰退した菱垣廻船を立て直して流通を一新。疲弊した慣例を次々と打ち破り、江戸の繁栄に生涯を捧げた改革者に迫る傑作歴史小説。

(本書カバー帯の紹介文より)

天保の改革を進める老中首座の水野忠邦に呼び出された、隠居した勘定所御用達の札差・堤弥三郎の回想として、大坂屋茂兵衛(杉本茂十郎)の生涯が語られていきます。
弥三郎は、茂兵衛から兄のように慕われ、かつて行動を共にした盟友でした。

文化三年秋、弥三郎は大坂屋茂兵衛と初めて出会いました。
茂兵衛は、江戸最大の大店ばかりが集まった会合に呼び出され、世話役の糸物問屋嶋屋長右衛門から町奉行に提出した飛脚運賃に関する「飛脚定法」を取り下げるように命令されました。

「それは致しかねますなあ。既にお上からもお許しを頂いております。もし御不満とあれば、もう一度改めて嶋屋様はじめ皆々様がお上に訴えて下さい。尤も、覆るとも思えませんが」
「思い上がりも甚だしい」
 嶋屋は恫喝するように声を荒らげた。
「飛脚が、飛脚だけで商いできると思うのか。我らの荷があって初めて成り立つものを」
「それはお互い様でございましょう。運ばれなければ商いはできない。物を運ぶにはそれ相応の手間がかかる。手間がかかれば金がかかる。商いのいろはのいでございますよ。それを外して算段なさるのが、そもそもの誤りでございましょう」

(『商う狼 江戸商人杉本茂十郎』 P.17より)

代々世襲で受け継がれ、御用商人として信用を得ていることを誇りとする旧来の老舗に対して、茂兵衛は生まれ育ちの違いのせいか考え方も振る舞いも違います。
居並ぶ大店の主人たちに畏れを抱くこともなく、堂々と商いの道理を語り、「矜持で飯は食えますかい。金ですよ」と啖呵を切りました。
会合に同席した弥三郎と同じように、新しい考え方をもった異質の経済人の登場、新旧の潮目の変化に高揚感を覚えました。

翌文化四年、永代橋崩落事故で、茂兵衛は愛妻と跡取り息子を亡くしました。

永代橋は五代将軍徳川綱吉の生誕五十年を記念して幕府によって架橋されましたが、享保の頃に、維持にかかる費用を捻出することが難しいという理由で廃止する話があり、町方で維持管理を請け負うことになっていました。

文化五年六月には、永代橋と同じ大川(隅田川)に架かる新大橋が崩落しました。
橋の架け替えも、幕府の助けはなく町に任せられましたが、けた違いに金のかかる大事業で、町年寄の樽屋与左衛門も打つ手がありませんでした。

茂兵衛は、妻子を失った悲しみを糧に、永代橋の架け替えに奔走していきます。

「私が望んでいるのは、手前の懐に金を入れることでも、出世でもありません。ただ江戸の弥栄です。そのためにも商人は町に金を出す。そうすれば、お上とて商人の声を聞き届けてくれましょう。商人としての誇りが保てましょう」

(『商う狼 江戸商人杉本茂十郎』 P.134より)

茂兵衛は、杉本茂十郎と名前を変えて、十組問屋(とくみどいや)と砂糖問屋の紛争を解決し、町奉行を説き伏せて、永代橋、新大橋、大川(吾妻)橋の3橋の架け替え修繕の請負を行うための事務所、三橋会所(さんきょうかいしょ)を作り、その頭取に就きました。

設立された三橋会所では、十組問屋をはじめとした商人から冥加金(営業税のようなもの)を集めて、永代橋、新大橋の架け替え費用に充てたり、事業投資をして、菱垣廻船を新造し、十組問屋の力を安定させるのに貢献しました。

茂十郎は永代橋の再建だけでなく、商いの道理に基づき、新発想で、江戸の商業の“最適化”に命を懸けて取り組んでいきました。
その一方で、変革を恐れる、旧勢力からは、得体のしれない鵺(ぬえ)のような獣で、茂十郎をもじって、“毛充狼”と呼ばれて忌み嫌われました。

江戸の金の流れを握り、三橋会所を通じた上納金で幕府との関係を深め、商いの力を発揮していく茂十郎でした。
ところが、金を動かす力が増すほど、金は経済難の幕府にとっても劇薬であり、茂十郎自身も底なしの沼のような政治の闇に取り込まれていきました。

江戸の町を颯爽と駆け抜けていった茂十郎の知られざる生涯を、史実と虚構を巧みに織り交ぜながらドラマチックに描いています。
本を置いたとき、深い感動が襲ってきました。
歴史時代小説ファンばかりでなく、江戸時代に関心がある人、ビジネスパーソンにもおすすめしたい江戸経済小説です。

商う狼 江戸商人杉本茂十郎

永井紗耶子
新潮社
2020年6月15日発行

書き下ろし

装画:宇野信哉
装幀:新潮社装幀室

●目次

一 駆ける
二 哭く
三 唸る
四 嗤う
五 牙剥く

本文297ページ

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『商う狼 江戸商人杉本茂十郎』(永井紗耶子・新潮社)

永井紗耶子|時代小説ガイド
永井紗耶子|ながいさやこ|時代小説・作家 1977年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。 新聞記者を経て、フリーランスライターとして活躍。 2010年、「恋の手本となりにけり」(2014年、文庫刊行時に『恋の手本となりにけり』と改題)...