弱い人にやさしい時代小説

北原亞以子さんの『やさしい男』を読んだ。元南町奉行所定町廻り同心森口慶次郎が活躍する「慶次郎縁側日記」シリーズの第七作目(『脇役 慶次郎覚書』を除く)だ。

脇役―慶次郎覚書 (新潮文庫)

脇役―慶次郎覚書 (新潮文庫)

収録されているのは、以下の8話。

「理屈」 「花ごろも」に無銭飲食の男が現れた…。

「三姉妹」 慶次郎は元鳥越町のとある寺院の境内で、年老いた遊女に出会う…。

「断崖絶壁」 新七はうだるような暑さの中を、七軒もの鰻屋をまわり、職をさがしたが…。

「隠れ家」 吉次は、芝日影町の古着屋に巾着を忘れてきた魚売りが、翌日、忘れ物を取りに行くと、巾着ではなく、中に入っていた銭とその巾着代を渡してくれたという話を耳にはさんだ…。

「悔い物語」 慶次郎は、浅草の観音様に佐七の代わりにおまいりした帰りに、第六天神宮のある角で、男に追われる熊手を持って逃げる女を捕まえた。男は四代つづいた店を潰した元・干鰯問屋の主人の直右衛門だった…。

「やさしい男」 吉次は、隅田川の百本杭の近くで身投げをする女おくにを助けた…。

「除夜の鐘」 かつて同じ料理屋で働き、姉妹のように仲がよかった女同士が、狭い通りを向かい合う形で縄暖簾の居酒屋を出していた…。

「今は昔」 慶次郎は、八丁堀に近い佐内町の横丁で脇腹を押さえて苦しむ、旅姿の初老の男作兵衛を助けた…。

江戸時代というと身分制度が確立しているので、格差があって、庶民を苦しめているように思えるが、本書を読んでいると、江戸の市井に暮らす人たちは皆貧しいながらも、お互いに助け合って暮らしているように見受けられる。長屋で生活するほとんどの者たちは、現代のように「格差社会」を感じずに、貧しい生活を当り前のことと受け止めて、その中で普通に暮らしている。しかし、中にはこの普通の生活が送れない者たちがいる。本シリーズに描かれる、ちょっとした間違いを犯したり、悩みや不満を抱えたり、普通以下の境遇に陥ったりする者たちである。

本シリーズの主人公の慶次郎は、同心時代は「仏の慶次郎」と呼ばれ、慈悲深いことで知られていた。最愛の娘三千代を自害で亡くし、今は養子の晃之助に同心の跡を譲り、根岸の寮番を務めている。その仏の慶次郎が、生き馬の目を抜くような厳しい江戸の暮らしに負けそうになる人たちを救う、癒し系の時代小説である。とはいえ、強力なハロゲンライトのように物事をパッと解決するというよりは、提灯のようにやわらかい光と温かさをもって道筋をほのかに示してくれる。

「お長さんといったけか、もう一回、いや、もう二、三回、どこかで除夜の鐘を聞かせてもらった方がよさそうだぜ。お前さんには、人より五割増しくらいの煩悩がありそうだ」

(「除夜の鐘」P.256『やさしい男』より)

このシリーズは、慶次郎が慈悲深いばかりでなく、養子の晃之助や同心の島中賢吾、岡っ引きの辰吉、太兵衛ら主要な登場人物たちが皆、慶次郎に感化されて慈悲深く、江戸のセーフティネットを作っている。そして、もっとも魅力的なのは、口で言うことと間逆な結果になってしまう、蝮の吉次と嫌われる岡っ引き、大根河岸の吉次である。