『大正の后 昭和への激動』

大正天皇を支え、平和を希求した貞明皇后の波乱の生涯

大正の后 昭和への激動PHP文芸文庫より刊行された、植松三十里(うえまつみどり)さんの近現代小説、『大正の后(きさき) 昭和への激動』を紹介します。

本書は、大正天皇(嘉仁親王)の后、貞明(ていめい)皇后節子(さだこ)様の波乱の生涯を描いた近現代小説です。

描かれている時代は、明治二十年代から朝鮮戦争による特需景気が始まった昭和二十六年まで。それは、日清、日露、第一次世界大戦と戦勝を重ね、日本が軍国主義に突き進み、太平洋戦争へと至る激動の時代でした。

幼少の頃に農家に預けられ、「九条の黒姫さま」と呼ばれるほど活発な少女として育った節子。その利発さと健やかさを評価され、皇太子妃として選ばれたことから、明治、大正、昭和をつらぬく節子の激動の人生が始まった。
病に臥せることの多かった大正天皇を妻として支え、母として昭和天皇を見守り続けた貞明皇后が命をかけて守りたかったものとは。

 節子は生まれて間もなくから、高円寺村に里子に出されており、父に会ったことがないが、九条道孝といって、官軍の大将を務めた偉い人だと聞いている。それだけに誇らしく、だれよりも胸を張って歌う。
「あれはちょうてき、せいばつせよとの、にしきのみはたじゃ、しらないか」
 
(『大正の后 昭和への激動』P.7より)

物語の冒頭で、高円寺村の地主大河原金蔵・テイ夫婦に里子に出されていた数えで五歳の節子が近所の少女たちと、トコトンヤレトンヤレナに歌詞で知られる軍歌「宮さん宮さん」を歌って、武蔵野の自然の中で魚捕りをするシーンが描かれています。節子の溌剌とした健やかさ、向日性が伝わってきます。

そんな節子のもとに赤坂の屋敷から迎えが来ます。華族師範学校の附属幼稚園に通い始めるためです。

 洋服の男は九条家の執事だと名乗り、金蔵に向かって、おごそかに告げた。
「姫君は、このまま、お連れする」

(中略)

「いや、旦那さまもお待ちゆえ、すぐに、お連れせねばならぬ」
 金蔵が肩を落としてつぶやいた。
「なんだか俺は、竹取りの翁になったような気分だな」
 とたんに、節子は泣き出した。
「嫌だ、嫌だ。さだは、お月さんになんか行かない」

(『大正の后 昭和への激動』P.20より)

高円寺村で愛情いっぱい、伸び伸びと育てられた節子は、かぐや姫の月の御殿と見紛うような赤坂の九条家の屋敷に引き取られました。
そこで、父と母、そして兄姉たちと初めて顔を合わせました。
 
節子は、いい子にしていれば、夏には高円寺村のばあやのもとに帰っていいと言われて、幼稚園に通い始めます。その後、華族女学校の初等小学科に進みます。
 
その頃の節子は、学校帰りに駄菓子屋に寄り道したり、教室で「オッペケペー」を歌ったり、官軍合戦という集団鬼ごっこをしたり、「九条の黒姫さま」と呼ばれるほどのお転婆ぶりでした。
 
官軍合戦が見つかり、しとやかでないと教師に大目玉を食っていたところに、小鹿島筆子(おがしまふでこ)という高等科のフランス語教師が通りかかり、節子の肩を持ってくれました。

このときから節子は、筆子と生涯にわたって、交流を続けることになります。

「なぜ逃げるの? あのお店、どうしたの? 知ってたら教えてよ」
 少年は舌打ちをして応えた。
「知らねえのかよ。店番の姉ちゃんが、怖い病気にかかったんだ。顔がくずれていくんだぞ」
 ハンセン病だった。うつると言われて、恐れられている。

(『大正の后 昭和への激動』P.47より)

 節子は顔見知りの少年から、駄菓子屋で飴玉をくれた娘の話を聞いて、無性に腹が立ち、無性に哀しくなりました。あの優しい笑顔が崩れていくことが信じられず、本人は何も悪くないのに、警察に連れて行かれたということに腹がたって仕方がありませんでした。

「おもうさまは、それほど出世をなさりたかったのですか。娘を里子に出してまで、帝に差し出したかったのですか」
 父の出世欲のために、自分は、あれほど哀しい思いをして、じいやや、ばあやから引き離れたのだ。それが腹立たしかった。さらに自虐的に言い放った。
「でも、おもうさまの思い通りには、まいりませんでしたね。なにせ九条の黒姫ですもの。こんな色黒じゃ、東宮妃になんか、なれやしません」

(『大正の后 昭和への激動』P.54より)

明治三十二年、節子が東宮妃候補の一人とあげられるようになります。学校でもさまざまな噂が飛び交う中で、帝の外戚になって出世したいものと思っていた父道孝から呼ばれて、思いがけない話を聞きます。

「おまえが生まれた時に思った。この娘を天皇家に嫁がせたいと」
 道孝は手にした煙管に、ゆっくりと刻み煙草を詰め、煙草盆の炭火で火を点けた。そして煙を吐くと、黙り込んだ。
 雨音が耳につく。節子は初めて口を開いた。
「それで、おもうさまは、私に何を期待しておいでですか」
 道孝は娘に視線を向け直して言った。
「戦争で負けた者たちの気持ちを、世に知らしめて、戦争を起こさぬことだ」

(『大正の后 昭和への激動』P.85より)

父道孝の思いは、この時はまだ節子には素直には受け止められませんでした。

しかし、その後にあったある出来事を経て、節子、のちの貞明皇后(皇太后)の平和を希求する願いへと継承されていきます。

「私は生涯、ほかの女性を寵愛しないつもりだ。西洋の王室では、それが当たり前で、何人もの妻を持つのは、遅れた国の証拠だそうだ。私は、そういう点でも、日本を西洋並みの国にしたい」
 嘉仁は、ごく自然な仕草で、節子の手を取った。
「だから子を産んでほしい。元気な子を、何人も産んでもらいたいのだ。そして里子には出さず、ふたりで育てよう」
 嘉仁の手は、さらりとした感触だが、意外な温かさがあった。その体温に、けっして雲の上の人ではないのだと、初めて実感できた。自分と同じく、血の通った人であり、哀しんだり、喜んだりするのだ。ならば生涯、同じ感情を共有しながら、一緒に生きていきたいと願った。

(『大正の后 昭和への激動』P.111より)

結婚の儀の初日の行事がすべ終わった後、嘉仁から節子に掛けられた言葉。本書を読んで初めて、大正天皇(嘉仁親王)の実像に近づけた気がします。

大正期の後半に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に任命されたことから、病弱のイメージが伝わっている大正天皇ですが、明治皇室で初めて一夫一妻制を取り、貞明皇后との間に、昭和天皇をはじめ4人の皇子をもうけています。

大正天皇は、気さくでやさしく、人間味にあふれる人物として描かれていて魅力的です。志半ばで病に倒れたことが残念でなりません。病状が進行する大正天皇を支える貞明皇后の姿が感動的です。

一貫した平和への思い、国民への変らぬ温かなお声掛けなど、平成の天皇陛下、皇后陛下の言動の源が大正天皇と貞明皇后から発しているように思えてなりません。

「私は、この戦争が終わるまで、東京から離れません。そう伝えてください」
 それは節子にとって、最後の切り札だった。いくら息子といえども、天皇に指図することはできない。その代わり、今すぐ戦争を終えてほしいという暗黙の主張を、伝えることはできる。

(『大正の后 昭和への激動』P.361より)

皇太后(節子)が疎開しなければ、天皇は疎開するわけにはいきません。天皇の命が大事ならば、とにかく戦争を終えるしかないのだと、節子は訴え続けました。

明治と昭和の間で14年余りの期間しかなく、これまで印象が薄かった大正時代ですが、「大正浪漫」の言葉で表されるような自由闊達な空気があり、もっともっと知りたい時代となりました。

平成という時代が幕を閉じようとする今(2018年)、本書に出合い、皇室の歴史の一端に触れ、貞明皇后ばかりか、大正天皇、そして昭和天皇が身近に思えたことは素晴らしい体験でもありました。

◎書誌データ
『大正の后 昭和への激動』
出版:PHP研究所・PHP文芸文庫
著者:植松三十里

装丁:芦澤泰偉
装画:ヤマモトマサアキ

第1版1刷:2018年9月21日
880円+税
402ページ

本書は2014年9月にPHP研究所より刊行された作品を文庫化したものです。

●目次
1章 武蔵野育ち
2章 九条の黒姫さま
3章 二十二歳の雪合戦
4章 大正浪漫
5章 はるか御陵へ
6章 日の丸の小旗
7章 ヒメジョオン

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『大正の后 昭和への激動』(植松三十里・PHP文芸文庫)