安政の大地震、その日を描く

杉本章子さんの『その日 信太郎人情始末帖』を読んでいる。毎回、江戸情緒、人の愛と憎しみを描き、ドラマティックな展開とあいまって、お気に入りのシリーズである。

火事の怪我がもとで視力を失った呉服太物店「美濃屋」の主・信太郎の身を案じるおぬいは、女中奉公をする。信太郎の目が回復しないまま、美濃屋では手代頭が店を辞め、別家の菱屋は美濃屋の得意先に主家との約定を破って出入りをするなど、揉め事が続く。そんなある日、江戸に大きな地震が起こる…。

シリーズ第6作目の今回は、呉服太物店の主になった信太郎の新しい生活とともに、安政の大地震の発生したその日が描かれている。地震が起きたときの人々の動きが複眼的にとらえらえていて面白い。

物語中で、江戸城の御金蔵が破られて、小判四千両が盗まれた事件のことに登場人物の一人が触れるシーンがあり、興味深かった。

その日―信太郎人情始末帖 (文春文庫)

江戸の最先端科学者、渋川春海の半生を描く

冲方丁さんの『天地明察』を読んでいる。碁打ちで算術家の安井算哲こと渋川春海のことは、この本を読むまでほとんど知らなかった。彼が取り組んだ改暦についても何も知らなかった。

 改暦の儀。
 貞享元年三月三日の今日。ついに帝は、かねてから誤謬明らかな現行の暦法を廃し、新たな暦法をもって新時代の暦となすことを発布された。

物語は、渋川春海が渋谷の金王八幡で、絵馬に出題された算術の問題の解答に没頭するシーンから始まる。算術おたくの面目躍如といったところ。冒頭から引きつけられる。算学家(算術家・算方家)を描いた時代小説に面白い作品が多いだけに、続きを読むのが楽しみである。

天地明察

藤沢さんが描く、小日向の風景

藤沢周平さんの『橋ものがたり』を読み終えた。十数年前に読んだときよりも、市井の男女の恋模様を面白く感じた。初読のときも面白いと思ったものだが、市井小説の真髄に触れた思いがする。自分がそれなりに年を重ねたせいかもしれない。

「小さな橋で」という短編が収録されている。作品の舞台は時代小説では珍しい、小日向である。

「原っぱに行こうよ」
(中略)
…原っぱというのは、崇伝寺の後にひろがる雑木林と葭の茂る湿地のことである。寺の境内からこの原っぱにかけての一帯は、町の子供たちの遊び場所だが、日暮れになると淋しくなる。
(「小さな橋で」『橋ものがたり』P.162より)

主人公の少年広次は仲間の子どもたちと、崇伝寺の裏に広がる原っぱに、行々子(ヨシキリ)の巣をのぞきにいくことを楽しみにしていた。江戸切絵図を見ると、崇伝寺は関口水道町にあり、近くには『江戸名所図会』に描かれた目白下大洗堰や目白不動があった。ちなみに物語に描かれた小さな橋は神田上水に架かる橋のように思われる。

橋ものがたり 新装版

iPad日本版で読みたいものは?

昨日予約していたiPadが会社に届き、週末家に持ち帰って、iPadアプリのインストールをしたり、あちこち触ったりしている。その前に、アメリカで発売されていたiPadをいじっていたので、最初のときより感動は薄い。

マスコミでの報道を見ていると、電子書籍端末としての機能を取り上げていることが多いが、App Storeで、電子書籍のiPadアプリをいろいろ見ていたが、現時点では無料で楽しめるものはまだまだ少ない。

とりあえず、700円のi文庫HDをインストールして、青空文庫の三田村鳶魚の「話に聞いた近藤勇」を読んでみた。青空文庫(著作権切れ)ほど古くなくて、品切れや絶版になり、書店で手に入らなくなった時代小説がiPadで気軽に読めるようになるとうれしいと思う。

つましい生活の中で、ささやかな幸せがある

藤沢周平さんの『橋ものがたり』を読み直している。タイトルどおりに江戸の橋を舞台にした10の短編を収録。十年以上前に一度読んでいるはずなのだが、ストーリーをすっかり忘れていて、初読のようなワクワク感を抱きながらページを繰っている。

「五年経ったら、二人でまた会おう」

幸助とお蝶の交わした約束。しかし、若い二人にとって、五年は平穏な月日ではなかった。それぞれが抱える不安と後悔、そして相手を思う強い気持ち。約束の場所は萬年橋。映画のワンシーンのよう。一話目で、いきなり涙腺が開いてしまった。

それぞれの話では、市井の普通の人(中には借金のために男と寝ることを強いられる女も含まれるが)が主人公。現在の境遇を愚痴ることもなく、それぞれが誠実に真摯に生きている。そんなつましい生活の中で、本当にささやかなことに生きる喜びを見出したり、人を思いやったりする姿が感動的。

忙しい生活の中で失くしてしまったものを気づかせてくれる。心の癒しになる作品集だ。

橋ものがたり 新装版