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調印の階段

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調印の階段
調印の階段

(ちょういんのかいだん)

植松三十里

(うえまつみどり)
[昭和]
★★★★☆☆☆

この本を読み終えたのが、終戦記念日のある8月。折りしも、中国、韓国、ロシアと領土を巡って争いが起こっている。
このブログをアップした9月17日は、日本政府の尖閣諸島の国有化に対して、中国で大規模な反日デモが行われた。

国際紛争へ発展する可能性が皆無とはいえない状況。日本人として、戦争と平和を考える時期に至っているのかもしれない。

本書の主人公、重光葵(しげみつまもる)は、戦争終結に奔走した昭和の外交官で、かつ、不名誉な無条件降伏の調印をした終戦時の外務大臣である。日本史において重要な人物のはずだが、不思議なことに、この人について授業で習った記憶がない。

本書を読んで、昭和にはこんな凄い人物がいたんだと、強い感動を覚えた。

 さらに、その二日後、松岡洋右が日本から駆けつけた。そして珍しく沈痛な面持ちで、枕元に立った。
「片脚を失う苦痛は、僕などには計り知れないものだろう。でも君は片脚の代わりに、得がたいものを身につけた」
 寝台の白い鉄パイプをつかんで言った。
「重光君、どうか、義足で歩けるようになってくれ。そして外交の場に復帰してくれ。おそらく足は引きずるだろう。だが君が、国際紛争の中で傷を負ったことは、誰の目にも明らかだ。君が、どれほど和平を望んでいるかは、何よりも君の姿が、雄弁に語ってくれるはずだ」

(『調印の階段』P.60より)

テロで右脚を失った重光を松岡洋右が見舞うシーン。松岡は日本が国際連盟を脱退した際の外務大臣。(この人については授業で習った記憶がある)

「これが私からの、はなむけの言葉だ」
 そこには志四海と書いてあった。
「四海を志すと読む。本来の意味は、志が全世界を覆う、志を全世界に及ぼすということだ。ただ私の解釈は少し違う。四海とは、まさに日本の周囲だ。もちろんヨーロッパもアメリカもだが、近隣の国々への配慮も大事だ。それを志にせよ。自分が東洋人であることも、忘れてはならぬ」

(『調印の階段』P.80より)

最近、ビジネスにおいてグローバル人材という言葉がもてはやされているが、こういう視点も忘れてはいけないのだろう。

「頑張ってください」
 その言葉が重荷だった。前向きになれない自分が情けなく、訓練に出かけるのが、いよいよ億劫になった。
 なんとか自分を奮い立たせてはいたが、ある朝、いよいよ起きられなくなった。通院の日なのに、頭痛がして、だるくてたまらない。微熱もある。また傷口が膿んで、菌が全身にまわったのかもしれないと不安になった。

(『調印の階段』P.89より)

順風満帆だった重光の挫折。心が折れた重光。強者でもスーパーマンでもはなく、生身の重光が描かれている。

――いかなる戦争も肯定すべきではない。全力を挙げて止めるべきだが、それでも開戦に至ってしまったら、できるだけ早期に終わらせることが大事だ。もちろん、イギリスもだ。今後、アメリカの支援を取りつけ次第、ドイツとの停戦に向かうべきだ。立場が好転した時こそ、いい条件で停戦できる――
 重光は右脚を失った時の上海事変でも、最初から、いかに停戦に持っていくかを視野に入れて、日本軍に出兵を要請した。
 戦争を起こさないための楯になり、それでも起きてしまった場合は、早期終結に努める。それこそが自分に課せられた役目だと、明確に意識し始めていた。

(『調印の階段』P.159より)

本書を読みながら、何回か胸が熱くなり、ついには落涙した。その生き方に深い感動を覚えた。

 受諾しようと口火を切る者は、よくて軟弱者、下手をすれば国賊と見なされ、日本中の批判を浴び、軍部からは命を狙われる。
 まして言い出したら最後、降伏文書への調印も押しつけられるのは明白だ。日本史上、もっとも不名誉な調印者として、自分の名を後世に残さねばならない。それがわかっているだけに、誰も言い出そうとしないのだ。
 重光は覚悟を口にした。
「口火を切ることくらいは造作ない。どれほど批判されようとかまわないし、命も惜しくない。調印にしても、私でよければ務めさせてもらう。だが本来なら、もっと責任ある地位の者がサインすべきだ。今の私の立場では、調印者になれない」

(『調印の階段』P.250より)

 歴史は勝者によって語られる。子供たちにも勝者の正義が教え込まれる。敗者の言葉になど、誰も耳を傾けず、敗者の書いたものなど、ただの言い訳だと思われて、誰も読まない。
 それでも重光は信じた。書き残しておけば、いつか誰かの目に触れると。いつか誰かが理解してくれると。
 来る日も来る日も書き続けた。事実を明らかにしたいという信念と、死んだ仲間たちの無念を、一文字、一文字に込めて綴った。それが重光の生きる力となった。

(『調印の階段』P.308より)

私が昭和を舞台にしたこの小説をあえて時代小説のジャンルに推したい理由はこれだ。作者の植松さんは時代小説の技法を駆使して、この物語を紡いでる。勝者の歴史では扱われない、敗者の本当の姿を描くことができるのは、時代小説の最も得意なことのひとつであろう。

主な登場人物
重光葵:駐華日本公使
重光喜恵:葵の妻
重光篤:葵の長男
重光華子:葵の長女
重光簇:葵の兄
林市蔵:喜恵の父で、重光の舅
重光直愿:葵の父
重光松子:葵の母
菊子:葵の妹
堀内干城:上海日本領事館書記官
松岡洋右:代議士
白川義則:陸軍大将
野村吉三郎:海軍中将
頓宮寛:福民病院院長
後藤七郎:九州帝大医学部外科教授
河端貞次:民団委員長
岩崎:義足の技師
ジュジュ:ポートランド在住のフランス人
加瀬俊一:駐英日本大使館一等書記官
廣田弘毅:外務大臣
近衛文麿:総理大臣
吉田茂:駐英日本大使
牧野義雄:画家
ベティ・シェファード:イギリス人のフリーランスライターで、父親がタイムズの主筆
チャーチル:イギリス首相
ハリファクス:イギリスの外務大臣
東條英機:首相
木戸幸一:内大臣
竹光秀正:重光の個人秘書
マッカーサー:連合国軍最高司令官
ケンワージー:MPの隊長
梅津美治郎:海軍中将
鳩山一郎:首相
ディアンスワリ:インドネシア代表

物語●昭和六年七月二十三日、駐華日本公使の重光葵は、国民政府の宋子文財政部長と会うために南京からの夜行列車で上海北駅に着いた。そこで、何者かに狙撃された。危うく難を逃れたものの、こちらが日本公使一行と知って、狙撃されたのだ。
抗日感情が高まるあまり、時には無法もまかり通る。これに対して重光は、まめに宋と協議して、日中融和を模索していた。
それから二ヶ月も経たない九月十八日、重光は南満州鉄道の線路が何者かによって爆破されたという嫌な電報を受け取った。
すぐさま重光は、爆破事件を日中の軍事衝突に拡大させないようにと、日本政府と満州の日本軍に、警告の打電をした。
だが、その日のうちに満州から満鉄爆破事件の続報が届いた。軍の武力衝突に発展してしまったという。この衝突は満州事変と呼ばれた…。

目次■1章 上海/2章 大分/3章 ロンドン/4章 東京/5章 日光、横浜、鎌倉、巣鴨/6章 ニューヨーク

装丁写真:(c)Frans Lanting/Frans Lanting Photography/amanaimages
装丁:芦澤泰偉
時代:昭和六年(1931)七月二十三日
場所:上海北駅、上海日本領事館、九州帝大医学部病院、大分別府温泉、杵築駅、ロンドン、ワシントン、サンフランシスコ、三番町、満州、日光、帝国ホテル、熱海・大観荘、横浜の大桟橋、ホテル・ニューグランド、巣鴨、ほか
(PHP研究所・1900円・2012/09/22第1刷・344P)
入手日:2012/08/14
読破日:2012/08/31

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