深川への愛情に満ちた時代小説

山本一力さんの『欅しぐれ』を読んだ。老舗履物問屋・桔梗屋太兵衛と渡世人の猪之吉の男と男の友情、深川の市井に暮らす人々の人情を小気味よく描いた作品である。

欅しぐれ (朝日文庫)

欅しぐれ (朝日文庫)

深川佐賀町の老舗履物問屋・桔梗屋太兵衛は、柴山光斎筆道稽古場で、咳き込み筆を手にしたまま紙の上に突っ伏して、席を隣にした男・猪之吉の半紙を汚した。太兵衛は、詫びをいうために亥之吉を船宿へ誘う。猪之吉は霊巌寺の賭場を仕切る貸元である渡世人だったが、太兵衛は偏見を持たずに猪之吉の人柄を見定めて交誼を結ぶことにする。それから五カ月後、猪之吉の賭場で、桔梗屋が振出した為替切手を使った騙りが起こった…。

山本さんには、『損料屋喜八郎始末控え』などの商人同士の戦いである、騙り(詐欺)を題材にした作品が多い。本作品も騙りを仕掛ける側と防衛する側の攻防をスリリングに描いている。物語では、富岡八幡宮の本祭の様子も織り込まれていて、深川者の矜持と作者の深川への愛情を感じることができる。

損料屋喜八郎始末控え (文春文庫)

損料屋喜八郎始末控え (文春文庫)

深川に関する記述で興味深かったのは、太兵衛が桔梗屋の厠を使用する場面で、

 軽い辞儀をして、猪之吉は厠の戸を開けた。用足しを終えて出てきたら、手水鉢のわきに女中が立っていた。

 ひしゃくに水を汲み入れて、猪之吉の手にかけた。両手を揉み洗いしながら、猪之吉がふっとけげんそうな顔になった。差し出された手拭いで拭う前に、手のひらをぺろっと舐めた。

 (中略)

「桔梗屋さんは手水にも、水売りの真水を使っていなさるのか」

(『欅しぐれ』P.192より)

深川は元々埋立地であり、大川(隅田川)の西側のように水道はなく、地中に井戸を求めても塩辛い水しか得られなかった。そのため、深川・本所の住人は、仕方なく飲み水は水売りから買い求めていた。水売りが売りにくる飲料水は、神田上水と玉川上水からこぼれ落ちる余水であった。水売りが売る水は、一荷(約46リットル)で百文から二百文であったという。そのため、洗い物などに使う水は井戸水を使うのが普通だった。