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夜去り川

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夜去り川
夜去り川

(よさりがわ)

志水辰夫

(しみずたつお)
[武家]
★★★★☆☆

本書の主人公・檜山喜平次は二十七歳の若者。武士としての身分を隠して、渡良瀬川のほとりの村で渡し守をしている。よそ者の彼がなぜ武士としての体裁を捨てて、村民のために尽くす、渡し守をしているのか、物語が進むにしたがって、その謎は明らかになっていく。

志水辰夫さんの時代小説では、物語の舞台を地方の村に置くことが多い。そして読み終えてみると、なぜ、その場所でなければならなかったのがよくわかる。本作品でも、上野の桐生に近い、渡良瀬川沿いの村が舞台になっている。

 それが近年になって、息を吹き返してきた。足尾銅山に寄りかかり、そのおこぼれを当てに暮らしていた生き方をあらため、自分たちの力で活気と明るさをとりもどした。あたらしい生業を見つけたからにほかならない。それが桐生織物という名で知られた織物業だった。
 
(『夜去り川』P.18より)

この黒沢村、妙見村ともに、桐生近在の村と同様に、機織りに従事しているものが百姓よりはるかに多くなっていたという。そういえば「かかあ天下」の起こりも女性の労働力が重視されたことに由来していると聞いたことがある。

 今年六月、浦賀へ突然押しかけてきた四隻の黒船騒ぎが、引き金となっていることは疑いなかった。黒沢村みたいな奥深いところへも、十日たらずで話が伝わってきたというから騒ぎの大きさがわかる。
 
(『夜去り川』P.32より)

この作品でもう一つ注目したいのが、その時代背景である。ちょうど黒船が来航した年の晩秋から物語が始まる。

「それがおまえの運だったのさ。運なんてのは、いつまでもわるいことがつづくもんじゃない。どんな貧乏くじを引かされようが、ときには生きていてよかったと思うことに、巡り会うことだってある。ただしそれも、これも、すべて生きていればの話だ」
 
(『夜去り川』P.43より)

若者が、国を出て渡し守に身をやつすというと、人生に絶望してか、さもなくば大望を胸に秘めてかのいずれかが考えられる。

主人公がある人物に語る言葉に耳を傾けると、それは生きることへの前向きな励ましだったりする。明朗な希望への予感が感じられる。

「むずかしいご質問だけど、わからないとお答えするしかありません。世のなかがいま、大嵐のさなかにあって、これが時代の、大きな変わり目になることはまちがいないだろうと思います。十年先がどのような世のなかになっているか、だれにもわかりません。先行きを読むことが、いちばん大事な商売人にとっては、ものすごく不安なことでしょう。かといってあなたを安心させてあげられるようなことを、わたしは言うことができません。ただ、これからどのような時代が来ようとも、あなたなら乗り切れると、力づけてあげるだけです」

(『夜去り川』P.139より)

と同時に、黒船が、当時の若者に与えた衝撃の大木さん改めて気づかされる。

 小さな家中の剣術指南となることを、双六の上りとしていた自分の有り様がいかに貧弱で、取るに足りないものか、どう取り繕ってみたところで意味があるとは思えなかった。骨の髄まで打ちのめされて、浦賀を離れたのである。あの日を境にして、自分が生まれ変わったとは思っていない。自分の有り様を見失った、というほうがもっと当たっている。自分の持っていたもの、しようとしていたもの、しなければならないと思い込んでいたもの、それが朝霧さながら、目に見えて立ち昇りながら消えてしまった。いまここに残っているわが身は抜け殻にすぎない。

(『夜去り川』P.153より)

志水辰夫さんが、時代小説でたびたび若者を主人公に描いてきているが、新しい時代に向けて社会が変わろうとするときに、その原動力となるのは若者だということを示唆している。黒船がきっかけで、喜平次は渡し守に身を落とすことができ、自分を見詰め直すことができた。

 小さな家中の剣術指南となることを、双六の上りとしていた自分の有り様がいかに貧弱で、取るに足りないものか、どう取り繕ってみたところで意味があるとは思えなかった。骨の髄まで打ちのめされて、浦賀を離れたのである。あの日を境にして、自分が生まれ変わったとは思っていない。自分の有り様を見失った、というほうがもっと当たっている。自分の持っていたもの、しようとしていたもの、しなければならないと思い込んでいたもの、それが朝霧さながら、目に見えて立ち昇りながら消えてしまった。いまここに残っているわが身は抜け殻にすぎない。

(『夜去り川』P.153より)

単なる青春時代小説としてだけでなく、志水さんがかつて得意としていた冒険小説、ハードボイルド小説を彷彿させるアクションシーンが後半にたっぷり用意されていて、エンターテインメント時代小説として大いに楽しめる、素晴らしい作品に仕上がっている。

また、正之助少年とその母親すみえ、祖母のいちの春日屋ファミリーと、喜平次の交流が微笑ましくもときは胸をドキドキさせられるのもいい。

主な登場人物
檜山喜平次:渡し船の船頭
弥平:渡し船の船
房吉:米搗き
溝口主水:幕府御家人
宮川信吾:忍藩士
ゆふ:信吾の従妹
いち:織物問屋春日屋の女主人
すみえ:いちの娘
正之助:すみえの息子
重吉:春日屋の番頭
おみつ:春日屋の女中
善助:おみつの亭主
紋吉:大間々の目明し。料亭雁が音の主
銀次:紋吉の子分。狭間村の旅籠野田屋の主

物語●黒船が来航したその年に、喜平次は、ある理由から素性を隠して、渡良瀬川のほとりにある黒沢村と対岸の妙見村をつなぐ渡し船の船頭(渡し守)をしていた。黒沢村の織物問屋春日屋の一人息子正之助のケガを治したことから、次第に村人たちに頼られる存在になっていった……。

喜平次は、足尾周辺の調査をしていて船を転覆させた御家人・溝口主水を助けたことから、幼馴染みの宮川信吾が喜平次のもとに訪ねてくる。喜平次がかつて、武蔵国忍藩(行田)の藩士の子で、お玉が池の千葉道場で剣術修業に明け暮れていたことが明らかになる……。

目次■夜去り川/解説 吉野仁

イラスト:岡田尚子
デザイン:関口信介
解説:吉野仁
時代:嘉永六年
場所:上野国の黒沢村、妙見村、桐生ほか
(文藝春秋・文春文庫・690円+税・2014/01/10第1刷・397P)
入手日:2014/02/01
読破日:2014/02/26
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