有明の月 豊臣秀次の生涯


有明の月―豊臣秀次の生涯 (広済堂文庫)
有明の月 豊臣秀次の生涯
(ありあけのつき・とよとみひでつぐ)
澤田ふじ子
(さわだふじこ)
[戦国]
★★★☆☆

秀次というと、「殺生関白」と呼ばれ、あまり評判がよくないが、晩年の秀吉を見ていると、必ずしもそうではなかったのではないかという気になってくる。

本書と大野さんの解説によると、秀次が残虐で常軌を逸した「殺生関白」と見なされるようになったのは、小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』以降であり、甫庵太閤記に意図的な歪曲があるのではないかという指摘である。甫庵が秀次と同時代人であり、秀吉の権勢下に生きたことと、中国のように正史の伝統を持たないことから考えると、納得できる仮説である。

おのれの才覚で立身出世を遂げ、頂点の極みへ上りつめた「庶民のヒーロー」としての秀吉像の原点もまた、この甫庵太閤記にあるように思える。秀次を再評価することは、かなり勇気が必要なことに思えるが、そのタブーに挑戦した澤田作品は評価したい。
情報操作による誤解といえば、貧農の出身というイメージが強い秀吉が、実はわりあいに裕福な中農の出であることもあげられる。

歴史にもしはないが、秀次が後継者を全うしていたら、関ヶ原の合戦は起こらず、徳川幕府は成立せず、伊達や上杉あたりが次期権力者になっていたのかなあ、と変な想像膨らませてしまう。

物語●母親ともに手をひかれた小吉と、父の弥助といっしょに、羽柴秀吉の招きに応じて、信吉(のぶよし)が尾張国大鷹村をたち、近江長浜へやってきたのは、天正三年冬枯れの頃であった。八歳のときであった。秀吉の姉夫婦である弥助一家は、大鷹村で百姓をやっていたが、出世した秀吉が身内を周りに置きたいという思いから呼びだれたのであった。長浜城に着いた信吉(後の豊臣秀次)の波乱の人生はこうして始まった…。

目次■湖国雁行/秀勝夭逝/安土御構屋敷/宿世邂逅/戦戦眺望/孫七郎初陣/秀吉出世/茶々哄笑/近江八幡山城/邯鄲の枕/京畿凶報/秀次悲運/解説 大野由美子

カバーイラスト:百鬼丸
カバーデザイン:桜井勝志
解説:大野由美子
時代:天正三年
場所:伊吹山、長浜城、安土城、三木城、近江国八幡山城、高松城、根来、聚楽第ほか
(廣済堂文庫・552円・01/02/01第1刷・320P)
購入日:01/01/20
読破日:01/03/08

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