桜ほうさら


桜ほうさら
桜ほうさら
(さくらほうさら)
宮部みゆき
(みやべみゆき)
[市井]
★★★★☆☆

主人公の古橋笙之介は、下総・搗根(とうがね)藩の小納戸役の次男。身に覚えのないが賄賂を受け取ったという文書が残り、それがもとで自裁した父。その死には、搗根藩の重臣たちの勢力争いが関係するらしい。古橋家の再興のために、笙之介は江戸へ出る。江戸の深川を舞台にした武家小説。

「笙之介さんよ」と、そえが呼んだ。
「はい」
「あんたも〈ささらほうさら〉だねえ」
 何と言った?
「甲州でね、そう言うんだよ」
 
(『桜ほうさら』P.41より)


タイトルは、甲州の言葉で、「あれこれいろんなことがあって大変だ、大騒ぎだ」というときに使う、「ささらほうさら」が元になっている。

 水面には、桜の花びらが散り浮いていた。
 今はまだ、それらのひとつひとつに桜の精が乗り込んで船団、花筏を組み、ヨイヤサアと小さな櫓を揃えて漕ぎ出した――というくらいだ。これがあと二日もすれば、桜色の毛氈を敷き詰めたような眺めになると、梨枝が教えてくれた。桜は散り始めると足が速い。
 
(『桜ほうさら』P.172より)


描かれているのは、今と同じ桜の季節。特徴的な比喩が楽しめる箇所で、不忍池に散った桜の花びらが目に浮かぶ。こうした比喩に出合うのも宮部作品を読む楽しみの一つ。


早朝の川縁、桜の木の下に佇む、桜の精のような娘に一目ぼれする笙之介。

 笙之介は、国許の老師にこのように教わってきた。曰く、わからないことに直面したときには、焦ってはいけない。わからぬものを強いてわかろうと、いきなり魚を捌くようにしてしまえば、わからなかったものの本体がどこかへ逃げ去ってしまう。故に、わからぬものに遭遇したら、魚をいけすで飼うようにそれを泳がせ、よくよく見つめることが正しい理解へ至る大切な道筋だ、と。笙之介はよろずの学び事に向き合うとき、この老師の教えを常に胸に浮かべてきた。
 
(『桜ほうさら』P.441より)


男女の情愛にも、この言に忠実にふるまう笙之介。

「おきんちゃんは、何かで私に怒っているのだろうか」
 すると太一は、世にも珍妙な顔をした。これまでに食べたことのないものを食べて、その味をどう言い表していいかわからない――強いて言うとそういう顔だ。
「あのさ、笙さん」
「うん」
「そういうこと、俺に訊かないでくれよ」
「どうして?」
「俺は姉ちゃんの弟だからさ」
 言って、太一はほりほりとこめかみを掻く。
 
(『桜ほうさら』P.440より)


同じ長屋に暮らし、笙之介よりはるかに世知に長けた少年・太一とのやり取りが何ともほほえましく、そしてジーンと来る。

――あなたは間違っている。
 利用され、陥れられる者はただ愚かなのではない。力弱く、他に使い道がないから捨て駒にされるわけでもない。
 皆、等しく人なのだ。力に驕る者も人なら、その力に虐げられる者も人なのだ。
 
(『桜ほうさら』P.539より)


「私の国許でも、不作と飢饉は身近な恐怖です。江戸に出てきていちばん驚いたのは、富勘長屋の人たちでさえ、明日のことはいざしらず、今日の飯は何とか食うことができる。今日がしのげれば明日もどうにか食えるだろうと恃むことができる。そういう暮らしがここにはあるということでした」
 笙之介の声に聞き入ったまま、治兵衛がゆっくり座り直した。
「しかしこの国のなかには、今日は食えず、明日も食えない、それを強いられて生きている人びとがいます。江戸の町の人びとの暮らしを支えているのは、そういう人びとなのです。私は、『都鄙安逸伝』のような書はもっと広く読まれるべきだと思います」
 
(『桜ほうさら』P.575より)


『万家至宝 都鄙安逸伝』は、『天明三八野愛郷録 抄』とともに、長堀金吾郎がくれた二冊の書物で、ともに奥州の小藩が飢饉の苦しみのなかで著した書物。

「第二話 三八野愛郷録」を読んでいるうちに、東日本大震災で被災し、いまだに苦しむ人たちの姿とオーバーラップしてきた。この本に込められた復興への作者の思いが伝わってきた。(奥付を確認したら発売日が3月11日!)

物語は、四つの話を中心に構成される。それぞれ話が緩やかながら重層的に関連していき、結末に向かって展開していく。江戸の市井でさまざまな人びとと関わりながら、成長する笙之介を描く青春小説としても楽しめる。

タイトルから連想される期待に違わない、桜の季節に読みたい名作の誕生である。

主な登場人物
古橋笙之介:上総搗根出身の二十二歳の若者。富勘長屋に暮らし、写本で生計を立てる
古橋宗左右衛門:上総搗根藩の小納戸役。笙之介の父
古橋勝之介:笙之介の二つ年上の兄で、剣術道の師範代を務める
古橋里江:宗左右衛門の妻で、笙之介の母
村田屋治兵衛:深川佐賀町の貸本屋
帚三:村田屋の番頭
村田屋興兵衛:書物問屋の主人で、治兵衛の兄
勘右衛門:富勘長屋の差配人
佐伯嘉門之助:藩校〈月祥館〉の老師
そえ:佐伯家の婢
千葉有常:搗根藩主
坂崎重秀:搗根藩江戸留守居役で、落首の号は東谷
六助:筆墨硯問屋「勝文堂」の手代で、通称筆墨売りの勝六
金太:勝文堂の手代
お秀:富勘長屋の住人で、古着の繕い直しや洗い張りを生計にしている
おかよ:お秀の七つになる娘
太一:笙之介と同じ富勘長屋に住む少年。十二歳
寅蔵:棒手振りの魚屋で、太一の父親
おきん:寅蔵の娘で、太一の姉
辰吉:富勘長屋の住人。天道ぼしを生業とする
おたつ婆さん:辰吉の母親
武部権左右衛門:手習所の師匠
聡美:権左右衛門の妻
おしか:富勘長屋の住人。青物の振り売り
鹿蔵:おしかの亭主
梨枝:池之端の川船宿「川扇」の女将
おまき:川扇の女中
晋介:川扇の板前
波野千:搗根藩御用達の道具屋
望雲侯:搗根藩先代藩主
押込御免郎:浪人者で、読み物作者
加野屋:神田伊勢町の瀬戸物屋
井垣松三郎:本所横川町の代書屋
お陸:松三郎の妻
和香:切り髪の謎の美少女
かなえ:富久町の仕立屋〈和田屋〉のお内儀で、和香の母
おつた:和田屋の女中頭
長堀金吾郎:三八野藩御用掛藩士
小田島一正:三八野藩先代藩主
貫太郎:鰻屋〈とね以〉の主人
お道:貫太郎の妻
志津江:小唄の師匠
お吉:本所石原町の貸席〈三河屋〉の一人娘
重右衛門:三河屋の主人
勝枝:三河屋の内儀
おせん:三河屋の女中
文字春:三味線の師匠
お雪:三河屋の元女中
伝次郎:船頭
年若い浪人者の代書屋
元医師の代書屋
三益兵庫:行き倒れの侍
小野内蔵助:搗根藩士
今坂源右衛門:搗根藩城代家老

物語●
「第一話 富勘長屋」上総搗根藩出身の古橋笙之介は、深川北永堀町の富勘長屋に暮らし、貸本屋の村田屋治兵衛と知り合い、写本作りの仕事を請け負うようになって、半年が経つ。ある日、治兵衛から、江戸随一の料理屋「八百善」が出した料理本『料理通』と、薄い板切れに刷り物を貼り、組み立てると八百善が出来上がる〈起こし絵〉が預けられた…。

「第二話 三八野愛郷録」ある日、古橋笙之介が外出中に、奥州三八野藩藩士長堀金吾郎が富勘長屋に突然押しかけてくる。しかし、その来客は、戻ってきた笙之介を見て、「また外れか」とがくりと肩を落す。長堀金吾郎は、笙之介が自分の探している男でないことを確認し、空腹と疲労困憊の末、倒れてしまう…。

「第三話 拐かし」笙之介は、和田屋で女中頭を務めるおつたから、村田屋の治兵衛が一昨日から行方不明になったと知らされる。心配しているところに、村田屋から丁稚が使いにきて、治兵衛から、折り入って笙之介に願い事があるという…。

「第四話 桜ほうさら」父の死の謎を探る笙之介は、他人の手跡をそっくりと真似ることができる技を持つ代書屋を探し始めた…。

目次■第一話 富勘長屋/第二話 三八野愛郷録/第三話 拐かし/第四話 桜ほうさら

装画・挿画:三木謙次
装幀:川上成夫
題字:塚本祐子
本文デザイン:CGS
時代:天保七年(1836)春
場所:北永堀町、池之端、佐賀町、神田伊勢町、不忍池、相生橋、富久町、本所石原町、大川、ほか
(PHP研究所・1700円・2013/03/11第1刷・605P)
入手日:2013/02/28
読破日:2013/03/09

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