完本 初ものがたり


完本 初ものがたり
完本 初ものがたり
(かんぽん はつものがたり)
宮部みゆき
(みやべみゆき)
[捕物]
★★★★☆☆

回向院の親分こと、岡っ引きの茂七が活躍する連作形式の捕物小説『初ものがたり』は、1995年に単行本化された後、1997年にPHP文庫、1999年に新潮文庫から刊行されている。今回の『完本 初ものがたり』は、「初ものがたり」収録の6編に、「糸吉の恋」(2001年の『愛蔵版 初ものがたり』に収録)と、「寿の毒」「鬼は外」の3編を加えた、完全版になっている。

PHP文庫で刊行されたとき以来、久方ぶりに読み直してみた。連作形式のそれぞれの話のストーリーをほとんど忘れてしまったことに、我ながらあきれた。

「貧乏人は、働いて働いて、一生働くだけで生きていくんだ、特におめえはそのでっかい身体だから、まともな縁はありゃしねえ。自分で稼いでいい暮らしをするんだぞって、あっしはずっと言い聞かせてきたんですよ。それなのにね……」
「お勢だって女だよ」
「女でも、女みたいな夢見ちゃ生きていかれねえ女もいるんです」
 これには、茂七もぐっとつまった。
 
(『完本 初ものがたり』「お勢殺し」P.33より)


なんか、せつないね。宮部さんの人間通ぶりが垣間見られるシーン。この「お勢殺し」は、岡本綺堂さんの『半七捕物帳』を想起させる。

 糸吉は鼻の頭に雪をくっつけて、頭上を見あげた。
「たくさん降るなあ。こういう春の雪の粒がみいんな川へ落ちて、海に流れて、一晩たつと白魚になるんですよ、親分」
 茂七はほうと言った。「おめえにしちゃあ洒落た文句を考えたもんじゃねえか」
 そういえば、糸吉は白魚を食わない。
 
(『完本 初ものがたり』「白魚の目」P.65より)


茂七は、二十歳になったばかりの若者糸吉と新川の酒問屋に三十年勤めあげ番頭にまでなったのに、些細なことでお店を追われて、四十五の歳で下っ引きになった権三の二人を使っているが、親分子分というよりは家族のような付き合い方をしている。そのせいか、陰惨な殺人事件を扱っていて、どこか血の通った温かみが感じられる。

「だけど、こんなことってあるものなのかしら」
 今のおせんの心のなかには、金座の大秤よりも大きな秤があって、右の皿には彼女の夢が、左の皿には警戒心が乗せられている。秤はふらふらと揺れ続け、右があがったり左があがったりしている。茂七にはその様子が目に見えるようだった。
 おせんの心の大秤の、目盛りを狂わせたくはない。茂七は努めて冷静に言った。
「なあ、おせん。水をさすわけじゃねえが、それでもやっぱり、この話は妙だよ」
 
(『完本 初ものがたり』「鰹千両」P.112より)


宮部ワールドの魅力のひとつ、著者が使う比喩表現の秀逸さ。鰹千両の話で揺れ動く心を見事に描写している。

「あの屋台の寿司はうめえぞ。酒もうめえ。所場代を取る気なら、うまいことやってもらいたいもんだな。あの親父が居づらくなって深川を出ていっちまったら、俺が困る」
 勝蔵は、大きなどんぐり眼をしばたたき、無言で拳を握っている。
「なあ、梶屋。おめえ、あの親父と知り合いなんだろう? そんなふうに睨みつけるのは、よほど訳ありの間柄だからか?」
 勝蔵は、頑として前を向いたままだ。岩のようだ。だがその横顔に、にわかに、あたかも不動明王が足を踏み出して、小さな赤子を踏んでしまったとでもいうかのような、えも言われぬ悲しみの色が浮かんだ。
 
(『完本 初ものがたり』「太郎柿次郎柿」P.181より)


狂言回しのように各話に登場する人物に、深川富岡橋のたもとに、夜っぴて開けている屋台の稲荷寿司屋の親父がいる。歳は五十五歳の茂七より少し若いくらい。もとは武家らしく、地回りの親分からも一目置くが、稲荷寿司はもちろん、他に出す料理も絶品ばかり。その正体が気になるところ。

 色白で華奢な立ち姿の娘だった。ずいぶんとやせているが、頬に菜の花の明るい黄色が照り映えている。娘の着物も淡い草色で、帯は黒、帯紐は黄色。その出で立ちで、菜の花畑のなかに、黄色い花の海に膝まで埋もれてほわりと立っていた。糸吉の方――つまり道の側に半ば背中を向け、両手を軽く拝むように胸の前であわせ、ちょっとうつむき加減になって。
 糸吉は足を止め、まばたきをして、ちょっとのあいだ棒立ちになった。出来過ぎなくらい美しい眺めだった。あれは誰だろうちか、何をしてるんだろうかとか思う前に、切り取っておきたいような光景に見とれてしまった。
 
(『完本 初ものがたり』「糸吉の恋」P.298より)


宮部さんの新作『桜ほうさら』で、主人公の笙之介が川べりで切り髪の謎の美少女を見かけて心を奪われるシーンが思い浮かんだ。原形はこれかも。

 生家を追われた寿八郎は、しかし、養家に自分の居場所を見つけることができた。あの稲荷寿司屋台の親父が据えた腰掛けのように、広い世間には、追われた鬼に座る場所をつくってくれる人も、まったくいないわけではないのだ。
 
(『完本 初ものがたり』「鬼は外」P.464より)


無邪気に豆まきをするときは気にしていなかったが、よく考えてみると、「鬼は外」は残酷な言葉だ。異質なものを排除する、マイノリティーや多様性を認めないこと。流行の言葉で言えば、ダイバーシティーを尊重しないということになる。

さて、『初ものがたり』にもともと収録されていた六話は、白魚や鰹、柿など江戸の四季の初物を織り込んでいて、完成度の高いものになっている。さらに、三話が追加されたことにより、宮部ワールドが拡大してより楽しめる素敵な作品になっている。

表紙の装画を担当している三木謙次さんが、本文の挿絵も書かれていて、物語の世界がより身近になった感じがする。しかも、本所深川の地図も付いているので、江戸に詳しくなくてもすっと物語の世界に入っていくことができる。

主な登場人物
茂七:「回向院の旦那」と呼ばれる岡っ引き
糸吉:茂七のところの下っ引き
牛の権三:茂七のところの下っ引き、元酒問屋の番頭
茂七のかみさん
稲荷寿司屋の主
瀬戸の勝蔵:黒江町の船宿梶屋の主で、土地の地回りやくざ連中を束ねる頭目

お勢:担ぎの醤油売り
猪助:お勢の父親、酒の担ぎ売りをしていた
音次郎:ャ走菇竕ョ野崎屋の手代
勝吉:海辺大工町の棟梁
加納新之介:本所深川方の同心
おこま:石原町の呉服屋尾張屋の女中
おゆう:尾張屋のひとり娘
角次郎:三好町の棒手振りの魚屋
おせん:角次郎の女房で、仕立物を生業にする
おはる:角次郎とおせんの娘
伊勢屋の主人:日本橋通町の呉服屋
加世:伊勢屋のお内儀
嘉助:伊勢屋の番頭
新五郎:梶屋の若い衆
おりん:深川西町の糸問屋「上総屋」の娘
日道:霊感坊主。御舟蔵の裏の雑穀問屋三好屋の倅長助
半次郎:三好屋の主で、日道の父
お美智:半次郎の女房で、日道の母
おたき:三好屋の女中頭
桂庵:医者
船宿「楊流」の女将
清次郎:小間物問屋の手代
朝太郎:清次郎の兄で、川越の百姓
松太郎:今川町の下酒問屋河内屋の当主
おさと:河内屋の台所係りの女中
お吉:河内屋の台所係りの女中
お夏:神田皆川町の味噌問屋伊勢屋の女中
清一:伊勢屋の下男
角田七右衛門:深川十万坪の地主
おとき:深川元町の蕎麦屋「葵屋」の娘
おこう:菜の花畑の張り番の女
吉太郎:熊井町の料理屋「堀仙」の主で庖丁人
彦助:蝋問屋辻屋の主人
お久:彦助の女房
辻屋の隠居:彦助の父
おきち:深川仲町の小間物屋いろは屋の女房
勘兵衛:おきちの夫
安川:医師
成毛良衛:本所深川方で検視役の同心
お金:本所緑町の小間物屋松井屋の娘
徳次郎:お金の夫
寿八郎:花川戸の船宿の主人
お末:お金の叔母
久一:お末の夫

物語●
「お勢殺し」下之橋の先で、素っ裸の女の土左衛門が上った。身元はすぐにわかり、女の名はお勢といい、担ぎの醤油売りだという。お勢は醤油問屋の手代の音次郎に熱を上げていたが、音次郎にはアリバイがあった…。

「白魚の目」冬木町の寺裏にある小さなお稲荷さんに、家のない、七つぐらいから十四、五ぐらいの子どもたちがねぐらにしていた。そのお稲荷さんで、五人ばかりの子供らが倒れているという知らせが茂七のもとにもたらされた。子供たちは、毒入りの稲荷寿司を食べていた…。

「鰹千両」三好町の長屋に住む棒手振りの魚屋角次郎は、日本橋の呉服屋の番頭から、主人が鰹まるまる一本の刺身を千両で買い取るから売ってくれと声を掛けられる。話を不審に思った角次郎は、岡っ引きの茂七に相談をする…。

「太郎柿次郎柿」亀久橋のそばの船宿で、小間物問屋の手代清次郎が殺された。殺したのは、清次郎の兄だという。清次郎は川越の出で次男坊だから江戸へ奉公に出されて、兄は家を継いで水呑み百姓を続けていた。二人の間に何があったのか…。

「凍る月」今川町にある下り酒問屋の台所から到来物の新巻鮭が一尾盗まれて亡くなった。当主の松太郎は、盗まれた新巻鮭と盗んだ下手人を探し出してほしいと、茂七を訪ねてきた。その後、酒問屋の台所係の女中が店から逃げ出す変事が起こった…。

「遺恨の桜」失せ物を見つけ出したり、憑き物落としをしたりして、評判の霊感坊主、日道が何者かに襲われて大怪我を負ったという。坊主と言っても、日道は通称で、本当の名は長助、御舟蔵裏の雑穀問屋のひとり息子で歳も十ばかり。茂七は、子供を痛めつける性質の悪い追剥の探索に乗り出す…。

「糸吉の恋」茂七の下っ引きの糸吉は、相生町の火事で焼けた長屋の空き地にできた一面の菜の花畑で、菜の花の精のような娘に恋をする。しかし、娘には…。

「寿の毒」熊井町の料理屋で、蝋問屋の隠居の還暦祝いの宴席が行われ、八人の客のうち、数人が具合が悪くなり、今朝になってそのうちのひとりが死んだという。死の原因は料理なのか、毒なのか、茂七の推理は?

「鬼は外」本所緑町の小間物屋の主人が亡くなり、その妹お金は、兄の双子の弟で、三十年前に花川戸の船宿に貰われていった寿八郎を呼び戻すことにした。ところが、寿八郎には偽者の疑いが…。

目次■お勢殺し|白魚の目|鰹千両|太郎柿次郎柿|凍る月|遺恨の桜|糸吉の恋|寿の毒|鬼は外|〈完本〉のためのあとがき|解説――ミヤベ・ワールドが凝縮された一冊 末國善己

装画:三木謙次
装丁:川上成夫
解説:末國善己
本文イラスト:三木謙次
本文デザイン:CGS
時代:明示されず
場所:深川富岡橋、回向院裏、下之橋、東永代町、小石川養生所、御舟蔵前町、永代橋、冬木町寺裏、三好町、日本橋通町、深川西町、北森下町、亀久町、今川町、北森下町、深川十万坪、本所相生町、熊井町、ほか
(PHP研究所・PHP文芸文庫・762円・2013/07/30第1刷・477P)
入手日:2013/07/17
読破日:2013/07/31

Amazon.co.jpで購入


コメント

コメント