いさご波


いさご波 (新潮文庫)
いさご波
(いさごなみ)
安住洋子
(あずみようこ)
[武家]
★★★★☆☆

『しずり雪』『夜半の綺羅星』『日無坂』など、作品数は多くないが、良質な中長編の時代小説を書かれてきた作者の短編集。武家に生まれた男たちの矜持と葛藤、家族の絆を清冽に描いた五編を収録している。甘すぎず軽すぎず、不思議と余韻が残る好ましい作品である。

五編の物語のタイトルには、それぞれ「波」がつけられ、海をイメージさせている。
ただ、その海は目の前に広がるものや、生活の傍らにある海ではなく、主人公たちに遠くにありながら、心の中にある海である。

作者はそのために、藩主の刃傷沙汰で改易になる赤穂藩や、御家騒動のために志摩鳥羽から二分され、摂津三田と丹波綾部に転封される九鬼家に仕える藩士たちを取り上げている。とくに、水軍のルーツを持ちながら、海のない地に移された九鬼家のことは興味深い。

巻末で重里徹也さんが、作者安住さんの文体の特長を詳しく解説されていた。いわく、「四季の変化が描かれていること」「安住さんの文章はセンテンスが短い。余計な形容詞を使わないことも特徴的だ」。

 星のない暗い夜だった。
 絶え間なく蛙が鳴いている。
 その声は地から湧き上がり、城下の隅々にまで響いていた。幾重にも重なっては波ようにうねり、藤野幸右衛門に押し寄せてくる。

(『いさご波』「沙の波」P.8より)


時代小説の中で、自然や季節感を描くことは意外と難しい。作者と読者が想像力を駆使して同じような時空間に身を置かないと物語にフィットしないからだ。また、登場人物たちの行動に気が行くと、どうしても情景描写が疎かになりがちであり、冗長な描写では読者のいらだちを誘ってしまうことになりかねない。

 和志は遼太郎の腕をほどき、戸口に向かった。
 ひんやりとした土間に入る。
 暗い。
 目が慣れると脇に梯子段があるのがわかった。
 一段一段、踏みしめて上がった。梯子段が軋む。
 
(『いさご波』「夕彩の波」P.174より)

短文をたたみ重ねる文体というと、ハードボイルド小説を思い出す。登場人物たちのアクションが映画のシーンのように頭の中で映像化される。また、簡潔な文体は武家の生きかたを描いたこの作品集では成功しているように思われる。

主な登場人物
「沙の波」
藤野幸右衛門:前橋藩祐筆役
登瀬:幸右衛門の妻
松助:藤野家の中間
戸部陣内:前橋藩筆頭家老
真崎兵庫:前橋藩組頭
掛井半之丞:前橋藩家老

「暁の波」
神崎幸四郎:摂津三田藩士
小野木柾頼:幸四郎の友人
佐和:柾頼の妻
千代:佐和の娘
三乃吉:筆屋の元手代
宗八:佐和の暮らす裏店の大家
おきぬ:佐和の裏店の隣の女房

「ささら波」
向井甚八:三十五石取りの御蔵番
節:甚八の妻
良介:甚八の長男
昌己:甚八の次男
箕島宗太郎:家中随一の剣の遣い手
佐々木豊彦:徒目付

「夕彩の波」
市来和志:摂津三田藩士。徒目付で十七歳
琴江:和志の姉
苑江:和志の母
お継:市来家の女中
佐弓:和志の許婚
松嶋遼太郎:和志の同僚
妙美:遼太郎の妹
茂吉:油問屋の主人
およし:茂吉の女房
春日部光輝:御奥番頭
春日部謙志朗:光輝の父で隠居
春日部元喜:謙志朗の次男

「澪の波」
樋渡尚文:医者
武内康平:樋渡の手伝いをし、儒学を学ぶ、十三歳
武内高宣:康平の兄普請組六十石
千穂:康平、高宣の姉
康平の母
お粂:荷足り船の船頭の女房で、樋渡の家事を手伝う
多助:呉服屋の丁稚
近衛三郎右衛門:丹波綾部藩祐筆役
藤井隼人:康平の儒学仲間
登坂実倖:樋渡の普請組時代の同僚
登坂つね:実倖の母

物語●
「沙の波」藤野幸右衛門は、父子二代の浪人暮らしを経て二十二歳で前橋藩に仕官が叶い、禄を得て十四年。祐筆役として、地道にお役目に励み心休まる平穏な日々を送っていた。ある日の下城後、筆頭家老戸部陣内の屋敷に呼ばれて、家族にも明かせぬ重大な密命を受ける…。

「暁の波」家督相続争いの末に摂津三田三万六千石に転封された九鬼家。祐筆役の神崎幸四郎は、友人の小野木柾頼の墓を参り、残された妻と子の様子を知りたいと願い、三年ぶりに鳥羽を訪ねる…。

「ささら波」三十五石取りの御蔵番の向井甚八は、剣術には少々自信を持っていたが、急に御前試合の遣い手に選ばれて、翌日には江戸に出立することに。甚八ら十人の集まりが江戸で迎えたのは、徒目付と目付だった。晴れがましいはずの御前試合には裏があるらしい…。

「夕彩の波」三田九鬼家の徒目付の市来和志は、同僚と市中見回り中に、暴れ馬に襲われそうになった女と男を体を張って助けたが、自身は左足に大きな怪我を負ってしまった…。

「澪の波」康平は、昼間は医者の樋渡のもとに通い、往診の供をし、儒学を習っていた。今年、十三歳になることもあり、家を出て弟子入りを願い出ようか、迷っていた…。

目次■沙(いさご)の波|暁(あかとき)の波|ささら波|夕彩の波|澪の波|解説 重里徹也

カバー装画:村田涼平
デザイン:新潮社装幀室
解説:重里徹也
時代:「沙の波」元文元年(赤穂藩改易の31年後)。「暁の波」寛永十三年。「ささら波」明記されず。「夕彩の波」延宝三年(寛文九年の六年後)。「澪の波」慶安元年(寛永十年の十五年後)。
場所:「沙の波」前橋、大避神社。「暁の波」鳥羽、答志島。「ささら波」深川木場。「夕彩の波」摂津三田。「澪の波」丹波綾部、由良川、ほか
(新潮社・新潮文庫・490円・2012/04/01第1刷・277P)
入手日:2012/03/29
読破日:2012/04/02

Amazon.co.jpで購入

コメント

コメント