市井
元同心が蕎麦屋の主人を務める、異色捕物小説
千野隆司さんの『夏越しの夜 蕎麦売り平次郎人情帖』を読み始めた。ハルキ時代小説文庫では同じ作者の「南町同心早瀬惣十郎捕物控」シリーズが好評だが、新たな新シリーズの登場だ。
元・定町廻り同心が蕎麦屋になって捕物を続けるものとしては、村上元三さんの『加田三七 捕物そば屋』がある。『夏越しの夜 蕎麦売り平次郎人情帖』の主人公・菊薗平次郎は、わけあって隠居し本芝入横町の裏長屋に住み、蕎麦売りを始めた。
平次郎の作る蕎麦が美味しいそうだ。蕎麦一杯が二十二文(普通は十六文のところ)と高いが、とくに出し汁の取り方などが玄人ぽくて、読んでいるうちに食べたくなり、つゆをすすってみたくなる。人々に一杯のぬくもりばかりでなく幸せを与える。
さて、主人公のつくる蕎麦のように、物語では、蕎麦売りの平次郎は苦悩や悲しみを背負った人たちを救うために仲間たちと協力して活躍する。元同心ながら、威張ったところがなく、市井に溶け込もうとしている。
「覗き見夜鷹」では、同じ長屋に住み、夜鷹をして稼いだ金を高利で貸して周囲の者からは嫌われる女・おてつを助ける。「芋飯の匂い」では、やはり同じ長屋に住み、胃の病を抱える浪人・長谷川忠兵衛の苦境を救うべく、平次郎は立ち上がる。「夏越しの夜」では、商売の縄張り争いで意地悪をされる先輩の蕎麦売り・熊十一家の苦境に命を張る…。
平次郎が助ける者たちが、夜鷹であったり、物貰いであったり、貧しい付け木売りだったりするが、偏見なく、それぞれの中に美質を発見して付き合う。また、そんな平次郎だから、彼を慕う仲間たちも損得抜きに協力を惜しまない。読んでいるうちに気持ちが浄化される作品である。
タイトルにある、「夏越し(なごし)」とは、師走の大晦日を「年越しの祓」というのに対して、六月晦日に行う祓いを「夏越しの祓」といった。七月から秋になる前日、夏の間の穢れを祓うために行われた。形代の人形に穢れを移して自分の代わりに川や海に流したり、茅の輪を潜ったりして、禊ぎをしたことにするのが、「夏越しの祓」の常といわれる。
夏越しの夜 (ハルキ文庫 ち 1-9 時代小説文庫 蕎麦売り平次郎人情帖)
「喬四郎 孤剣ノ望郷」シリーズ第2弾、ますます快調
新人時代小説家・八木忠純さんの『おんなの仇討ち』を読んだ。摂州上和田藩家老の父を謀殺され、故国を脱藩し、江戸の蜘蛛の巣店に身を潜める、有馬喬四郎を主人公にする「喬四郎 孤剣ノ望郷」シリーズの第二弾。
今回は、喬四郎と同じ道場に通う、娘とよが、父の敵を突き止めた様子。偽侍の西田金之助が助太刀を買って出る腹づもりらしいが…。
師から借り受けた『陽明学 覚』を読み、王陽明に惹かれる、主人公の若さと煩悩が新鮮。時代小説好きにおすすめの作品である。新人離れした、読み味のよさも魅力。
おんなの仇討ち―喬四郎孤剣ノ望郷 (文春文庫)
永代橋崩落に題材をとった捕物小説
千野隆司さんの『永代橋の女 へっぴり木兵衛聞書帖』を読んだ。文化4年(1807)8月19日に起こった永代橋崩落に題材をとった、連作捕物小説。主人公の土橋木兵衛は、家禄五十石の無役の御家人で、達筆を買われて、看板書きの内職に精を出していた。四年前までは、御天主番衆だったが、妻の珠江が何者かに殺された事件で、お役を罷免されて家禄を半減させられ、青山から本所へ屋敷替えの沙汰を受けた。
十二年ぶりの祭礼で見物客が殺到し、崩落事故の起こった永代橋で、木兵衛は商家の主人が男に突き落とされる一部始終を目撃した。非道の振る舞いに腹の底から怒りのこみ上げた木兵衛は、犯人の男探しに乗り出す…。
木兵衛は、剣術がまるっきしダメで、刀を構えてもへっぴり腰になってしまうことから、「へっぴり木兵衛」と呼ばれていたが、正義感は強く情に篤かった。第一話「永代橋情けの仇討」、第二話「もらい子」、第三話「残された女」、いずれも永代橋崩落で、運命が変わってしまった人たちを描いている。
永代橋落橋事件を描いた時代小説に杉本苑子さんの『永代橋崩落』がある。中公文庫から出ていたものは絶版になっているようだが、読んでみたい。
永代橋の女―へっぴり木兵衛聞書帖 (学研M文庫)
安政の大地震、その日を描く
杉本章子さんの『その日 信太郎人情始末帖』を読んでいる。毎回、江戸情緒、人の愛と憎しみを描き、ドラマティックな展開とあいまって、お気に入りのシリーズである。
火事の怪我がもとで視力を失った呉服太物店「美濃屋」の主・信太郎の身を案じるおぬいは、女中奉公をする。信太郎の目が回復しないまま、美濃屋では手代頭が店を辞め、別家の菱屋は美濃屋の得意先に主家との約定を破って出入りをするなど、揉め事が続く。そんなある日、江戸に大きな地震が起こる…。
シリーズ第6作目の今回は、呉服太物店の主になった信太郎の新しい生活とともに、安政の大地震の発生したその日が描かれている。地震が起きたときの人々の動きが複眼的にとらえらえていて面白い。
物語中で、江戸城の御金蔵が破られて、小判四千両が盗まれた事件のことに登場人物の一人が触れるシーンがあり、興味深かった。
その日―信太郎人情始末帖 (文春文庫)
藤沢さんが描く、小日向の風景
藤沢周平さんの『橋ものがたり』を読み終えた。十数年前に読んだときよりも、市井の男女の恋模様を面白く感じた。初読のときも面白いと思ったものだが、市井小説の真髄に触れた思いがする。自分がそれなりに年を重ねたせいかもしれない。
「小さな橋で」という短編が収録されている。作品の舞台は時代小説では珍しい、小日向である。
「原っぱに行こうよ」
(中略)
…原っぱというのは、崇伝寺の後にひろがる雑木林と葭の茂る湿地のことである。寺の境内からこの原っぱにかけての一帯は、町の子供たちの遊び場所だが、日暮れになると淋しくなる。
(「小さな橋で」『橋ものがたり』P.162より)
主人公の少年広次は仲間の子どもたちと、崇伝寺の裏に広がる原っぱに、行々子(ヨシキリ)の巣をのぞきにいくことを楽しみにしていた。江戸切絵図を見ると、崇伝寺は関口水道町にあり、近くには『江戸名所図会』に描かれた目白下大洗堰や目白不動があった。ちなみに物語に描かれた小さな橋は神田上水に架かる橋のように思われる。
橋ものがたり 新装版


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